エディット・ピアフ その人生と十字架のペンダント(Part1) |
宝飾品は身に着けた人の人間性や生き方が積み重なることによって一層その価値が高まるとカルティエは考えてきたそうです。
監修した吉岡氏はカルティエ作品の魅力がこの一つひとつのストーリー(物語)にあると考え、展覧会のコンセプトに据えました。
見る人の想像力に働きかける彼の演出は、宝飾品の辿った歴史を見事に甦らせていました。
「王の宝石商、宝石商の王」
数々の著名人に愛されたカルティエジュエリーだからこそ、そう言われてきたのですね。
エディット・ピアフ
フランスで最も愛されているシャンソン歌手の一人ですね。
彼女も、贈られたカルティエジュエリーを生涯肌身離さず大切に身に着けていた女性のひとり。
少し、彼女の生涯とそれにまつわるジュエリーについて、エピソードを交えながら書いていきましょう。
■エディット・ピアフの生い立ち
彼女は、1915年12月19日、カフェシンガーの母親と過去に劇場で演技したことのある大道芸人の父親との間に、パリの貧しい地区ベルヴィルで生まれました。
母親に置き去りにされたピアフは、その後フランス軍に入隊した父親によって売春宿を営んでいた祖母のもとに預けられます。
早い時期から娼婦や様々な売春宿の訪問客と接触を持った経験は、その後、彼女の人格と人生観に大きな影響を与えました。
ピアフは3歳から7歳にかけて角膜炎が原因で目が見えなくなっていましたが、祖母のもとで働く娼婦とともにリジューのテレーズへ巡礼を行った後、奇跡的に視力が回復したのです。
このことがきっかけとなり、彼女はキリスト教への深い信仰心を持ち、そのしるしとして十字架のペンダントを身に着けるようになりました。
彼女にとって十字架のペンダントは、装身具というよりも、むしろ心の拠りどころだったのですね。
ここで少し十字架のペンダントについて触れてみたいと思います。
■十字架のペンダント
十字架はイエス・キリストが磔刑に処されたときの刑具と伝えられ、主要なキリスト教派が、最も重要な宗教的象徴とするものです。
十字架がキリスト教の信仰の中で重視されるようになったのは313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認したあとです。
十字架はキリストの受難の象徴または死に対する勝利のしるし。さらには復活の象徴として捉えられました。
ピアフが、聖地巡礼後奇跡的に視力が回復したという自らの体験から、信仰心を強め、復活のシンボルである十字架のペンダントを大切にしたのは納得が行く話ですね。
ここで十字架にまつわる代表的なジュエリーについて、中世とルネッサンス時代から一点ずつご紹介したいと思います。
●カール大帝の魔よけ(ランス大聖堂)*写真
中世では、西欧社会がキリスト教に改宗していく過程で、教会と聖職者の存在が大きくなっていった時代でした。
この時代を通じてキリスト教徒であった王侯や貴族が求めたのは、聖遺物(=イエス・キリストの生涯に実際に関わりのあった遺物)でした。
写真は、814年にカール大帝の遺体とともに埋葬された、聖母の遺髪と、キリストが架けられた本物の十字架から採ったとされる木片の聖遺物(真偽のほどは不明)が十文字にはさめられたとされるペンダント型ジュエリー。
その後、なんと1169年にオットー3世が大帝の墓を開いて、遺骸の首に掛けられていたこのペンダントを取り出しました。
それ以来、聖堂の宝物庫に保管されていましたが、1804年に司教座聖堂参事会員によって、ナポレオン1世の皇后ジョセフィーヌに戴冠式用のジュエリーとして贈られました。
巨大なカボッション型のサファイアが中央に金の枠から大きく盛り上がって埋め込まれ、枠には金線細工が施され、ガーネット、エメラルド、真珠が裏表に入っています。
Ken
*写真:ジュエリーの歴史(八坂書房)より