ベル・エポックに開花した、アール・ヌーヴォー・ジュエリーPart1 |
ジュエリーはお好きですか?
ジュエリーというと、どのような物を頭に浮かべますか?
私は、長らくジュエリーに関わってきました。
ジュエリーが持つ魅力は様々ですね。
美を彩る物として、高価な価値ある物として、人々の憧れの物として・・・
しかし、ここでは、ちょっと違った切り口でジュエリーの魅力をお伝えしたいと思っています。
例えば、映画の中のジュエリー、絵画の中のジュエリー、ジュエリーが歴史的に果たしてきた役割など・・・
ゆっくり美味しいコーヒーでも飲みながら、この書斎で私の話にお付き合いいただけませんか?
さあ、今日は何の話から始めましょうか?
Ken
『ベル・エポック』という言葉を耳にしたことがありますか?
『ベル・エポック』は、1870年頃から第一次世界大戦が勃発する1914年までのパリが繁栄した華やかな時代を指す言葉です。
では、どんな印象をお持ちですか?
文化、芸術、ファッションなどあらゆる面で、フランス・パリが大きく進化した時代ですね。
実は、この時期のパリにおけるジュエリーは、大きな2つの潮流に分かれて発展して行くのです。
一つは、アール・ヌーヴォー様式と呼ばれ、宝石の価値にこだわらず、自然を主な着想源とした画期的なデザインに存在意義を見出すジュエリー。
もう一つは、ヴァンドーム広場に居を構えたグランド・メゾンに代表される、大粒の宝石を配した正々堂々としたジュエリーです。
今回は、このベル・エポックでも、1895年から1910年の、たった15年という限られた期間に、パリを中心に花開いた『アール・ヌーヴォー・ジュエリー』について、その時代背景やそこに関わった様々な人物などを取り上げながら、その特徴を見ていきたいと思います。
アール・ヌーヴォーに至るフランスについて語るには、まずは、ライバル国イギリスに触れる必要があるでしょう。
≪イギリスへの対抗心、万国博覧会を利用した躍進≫
19世紀中頃のイギリスは、他のヨーロッパ諸国に先駆けて、産業革命の恩恵を受けて、工業と商業が発展していました。またインドなど海外の植民地から得た様々な収穫もあり、ひと足早く都市型の消費社会が誕生していました。
そこでは、充実した教育を受けた裕福な中産階級を対象に、既に高級消費財の市場が確立されていたのでした。
そのフランスが、イギリスに追いつき追い越せと、躍起になって取り組んだ国家プロジェクトがありました。
それは、万国博覧会です。
フランスが、工芸品の分野で、極めて高い水準の創作物を生み出す、大きなきっかけとなったのは、この万国博覧会での真剣な取り組みがあったからだと言えるでしょう。
大成功に終わった1851年の第1回ロンドン万国博覧会に刺激されたフランスでは、翌年に皇帝に即位した、ナポレオン3世が、その後、取りつかれたように万国博覧会を開催していきます。
ナポレオン3世は、1855年、1867年に万国博覧会を開催しましたが、彼が追放され第三共和制となった後もフランスは、1878年、1889年そして1900年と、19世紀後半だけでなんと5回もパリで万国博覧会を開いたのです。
当時フランスで開催された万国博覧会の特徴は、工業面での進歩や植民地からの珍しいものの展示もありましたが、かなりの部分が工芸品の展示に割かれていたことでしょう。
工芸品の中でも、ジュエリーあるいは、銀器、実用品や置物などが、重要な地位を占めていたのです。
一方で、19世紀後半に開催された万国博覧会は「もの作り」に関する大きな転換点でもありました。言い換えると、それは今まで手工業で作られてきた「手作り品」が、産業の進歩により画一的な 「製品」へと変化したことを意味します。
≪工芸世界での改革運動、そしてアール・ヌーヴォーへ≫
これらの万国博覧会をきっかけに、物質文明が進み過ぎたことに反発した人々が、やがて、イギリスにおいて、「アーツ・アンド・クラフト運動」を起こします。
この運動は、イギリスで生まれました。
そのコンセプトは、1851年の第1回ロンドン万国博覧会から、留まることのない機械による工芸の産業化を止めさせ、中世の職人の手作業にこそ工芸の真の価値を見つけようというものでした。
その中心人物は、ウィリアム・モリス(1834‐1896年)であり、ジョン・ラスキン(1819‐1900年)でした。
言うまでもなくウィリアム・モリスは「モダン・デザイン」の父であり、ジョン・ラスキンは当時著名な美術評論家だったのです。
それには、イギリスにおけるジュエリーが、機械による大量生産やデザイン面でのコピー同様の安物が氾濫したことに起因し、こうした俗化に対する反論が、美術工芸運動として沸き起こるという背景があったのです。
この流れは、やがて、「アール・ヌーヴォー」といった芸術運動となって、ベルギーを経由して、フランスで巻き起こります。
≪フランスで花開いたアール・ヌーヴォー≫
アール・ヌーヴォーとは一言で言えば、「新しい芸術」という意味ですね。
19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動を指します。
花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる、従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などを主な特徴としており、その分野は、建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたりました。
当時、様々な分野でこのアール・ヌーヴォーを採り入れようとする動きが見られました。
本の表紙から、雑誌の挿絵、宣伝ポスターから装飾パネルや絵葉書にいたる、グラフィックデザインの世界に至るまで…
アール・ヌーヴォーは大きな影響を及ぼしたのです。
ここで、サラ・ベルナール(1844‐1923年)という一人のフランスの女優を取り上げてみたいと思います。
≪サラ・ベルナールとアルフォンス・ミュシャ≫
1枚のポスターをご覧下さい。
『ジスモンダ』(1894年)
これは、アール・ヌーヴォーを代表する画家、アルフォンス・ミュシャが名声と社会的地位を得るきっかけとなった伝説的ポスター作品『ジスモンダ』です。
このサラ・ベルナールこそが、アルフォンス・ミュシャにアール・ヌーヴォー様式を引き出させた、まさに女神だったのです。
サラからの作品受注の機会を最大限利用して、ミュシャは、数々の作品を世に出すことになるのです。
彼は、サラの顔の美しさだけでなく、髪の毛、花をあしらった冠を流れるような曲線で描き、アール・ヌーヴォーならではの、女性の“理想の美”を描き出したのです。
伝説的女優「サラ・ベルナール」を、華やかで官能的な女性像として描いた装飾性豊かなポスターは、まさに、アール・ヌーヴォー、そしてベル・エポックの代名詞となったのです。
(Part2へと続きます)
Ken
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宝石、ジュエリー
世界史(世界歴史)
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