バリ旅行記Part2 |
その昔、オランダの統治国であったにも関わらず、その影響や名残りが極端に少ないことが気に
なっていました。
果たしてどうしてなのか?
今まで訪れた国や都市、香港、上海、台湾、タイなどはかつて統治していた国々の匂い、名残りがかなり感じられたのですが、バリ島ではそのような雰囲気を感じませんでした。
私自身、未知の国や土地を訪れる際に、異文化同士が融合して、現地にどう溶け込んでいるのかを見ることが大好きなのです。
かつては、敵対し合っていたとしても、統治された後、宗主国の文化は自ずと現地社会に親和していき、独自の発展を遂げていくものだからです。
ジャワ島を見ていないので、オランダ統治の名残りがないとは、軽々しく言えないのですが、バリ島では独自のヒンドゥー文化が根付いていたのでした。
2010度の調査によると、インドシアの主な宗教は、イスラム教(89%)、プロテスタント(6%)、
カトリック(3%)、ヒンドゥー教(2%)、仏教(1%)とイスラム教が大半を占めているにも関わらず、2004年の調査によると、バリ島は、ヒンドゥー教(91.4%)、イスラム教(5.9%)、
キリスト教(2.1%)、仏教(0.6%)とヒンドゥー教が大半を占めています。
同じ国なのに宗教の比率がこうも違うなんて…
これは、不思議なことだと思っていました。
当初私の認識では、インドネシアはイスラムの国という印象でしたが、どうもバリ島だけは、
事情が違って、ヒンドゥー教の国だったのです。
ヒンドゥー体験のない私は、訪れる先々で、ヒンドゥー教の文化に触れました。
<ヒンドゥーの女神>
ホテルで出迎えてくれたヒンドゥーの女神の石像
ネカ美術館で、出会った女神
そして、バリのそこここで見かける当たり前の光景
ヒンドゥーの神々に捧げるお供えは家の入口や神様の前など様々なところに…
<火葬式ガベン>
天界へと上る儀式のガベン。
バリ人は母体に生を受けてから死に至るまでの間に、いくつもの儀礼を通過するのだそうです。
神の化身から人としての生を受け、一個人として村の一員として認められ、成人として人間性を完成するために、獣性を払拭し、結婚し、死して祖霊に昇格するまでの一連の儀式。
ヒンドゥー教の教えに則って様々な儀式が節目ごとに行われるのです。
現地のガイドを務めてくれた日本語の出来るバリ人のお兄さんは、村の儀式やお祭りの日は、
会社でお休みが取れると言っていました。
バリヒンドゥーの文化がすっかり人々の生活に根付いているのだなと思いました。
ガベンと言われる火葬式は、一生のフィナーレに相応しい人生最大のイベント。
私たちが訪れた期間に、王族のお母さまの逝去に伴うガベンが王宮のあるウブドゥで行われました。
<ウブドゥの王宮>
バリ火葬の特徴は、遺体を入れる棺の形が、ヒンドゥー教の聖なる動物である牛の形をしたものが
使われる点にあります。
尚、裕福な家庭では、メルと言われる塔を模して飾り付けられた壮麗なやぐらを組み、それに棺を入れて家から火葬場まで行列をなして運ぶこともあるのだそうです。
バリは、世界でも数少ない公開火葬の地として知られているのです。
<バリ人の死生観>
バリのお葬式の概念は、日本のそれとはまるでは違い、壮大で陽気で雄々しく、まるで
お祭り騒ぎのように華やかなものなのだそうです。
実際の、現地のバリ人の方に伺ったら、死ぬことは、とてもうれしいことなのだそうです。
それを知る鍵として、民族資料館で見た、影絵が参考となるでしょう。
日本で影絵というと、暗闇では見えなくなるのだからとそもそも黒い色で作られるのですが、
バリの影絵は、実にカラフルな極彩色で作られるのです。
ヒンドゥー教では、生きている現世こそが、辛い仮の世界で、死後こそが、楽しく幸せな世界だという
考えからきているのだそうです。
だからお葬式は実にめでたいことであり、死後の世界を影絵で演じる際には、その幸せな世界は華やかな色合いで染められるのだそうです。
<ケチャ>
大勢の男性によって演じられる合唱舞踊は、ラーマーヤナ叙事詩をモチーフにした舞踊劇とともに
演じられることが多いようです。
私たちは、南西部にある、タナロット寺院に行き、放し飼いの猿の度を越したいたずらに用心しながらも、タナロット寺院の絶景を見ながら、夕闇の中でケチャを堪能しました。
「チャ」の掛け声は、きちんと5つか7つのパートに分かれていて、その高度なリズム感は驚異的。
各パートの微妙で複雑なズレが全体の掛け声に厚みと深さを与え、聴くものを不思議な感覚に
いざなうのでした。
さて、最初の本題に戻ります。
なぜ、バリでは、元統治国のオランダの香りがしなかったのでしょうか?
これには、少し歴史を紐解く必要があるでしょう。
その辺の事情については、永渕康之氏の著書「バリ島」に詳しく書かれています。
ヒンドゥー文化はかつてジャワでさかえ、その後イスラム勢力の進出によって滅んだのですが、
バリではそのヒンドゥー文化が今でも人々の生活に生きながらえているのでした。
20世紀のはじめ、ジャワ島を中心にインドネシアの民族意識が生まれ、民族運動が展開された
時代でした。
運動の拡大とともに、オランダ政府は従来の政策を見直して、いくつかの懐柔策を打ち出しましたが、
ジャワではイスラム教が大衆を運動に動員させる上で、大きな役割を果たしていったのでした。
そこで、お隣のオランダのバリ地方政府は、バリのヒンドゥー文化をイスラムと対峙させ、
一種の盾として使うことで、民族運動の拡大を遮断出来るのではないかと考えたのです。
そんな思惑から、時の政府は、バリ文化の保護にいっそう力を入れ、文化を尊重することで、
ヒンドゥー的な世界であるバリ社会を政府に手なずけ、政府に敵対するイスラム的なジャワから
切り離そうとしたのです。
そんな過去のいきさつもあり、バリではいまだにヒンドゥー文化が脈々と受け継がれているようでした。
私が、バリで目にした、オランダと関係するものは、戦争で使われたとされるこの大砲だけでした。
世界的にも有名な観光地バリの世界観がいまだに崩れていなくて、美しいのは、過去に文化を
保護しようとした宗主国の政治的な思惑が働いたという歴史的背景があることは感慨深いことでした。
Ken
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