グランドツアーと絵画、ジュエリー |
「グランドツアー」とは、16世紀から19世紀のイギリスにおいて、貴族や裕福なジェントリー層の子弟の間で盛んだったヨーロッパ大陸への大周遊の修学旅行のことです。彼らは、家庭教師やお供を連れて、数か月から数年ほどかけてヨーロッパ大陸に滞在したのでした。
例えば、イタリアでは貴族に相応しい教養として一流の芸術や古代遺跡などの異文化に触れ、フランスでは、洗練されたエチケットや立ち居振る舞い、ファッションなどを学んだのです。
グランドツアーの主な行き先は、フランス、イタリアの他に、スイス、ドイツ、オランダなどで、特に、パリ、ヴェネチア、ローマは常に英国の人々で賑わっていたそうです。
今回は、グランドツアーと称したヨーロッパ大陸への旅を通じて、イギリスの貴族や裕福な子弟が、お土産として持ち帰った絵画やジュエリーを取り上げます。そしてその後のイギリスにもたらした影響についても書いてみたいと思います。
≪グランドツアーの社会的背景≫
17世紀、古典古代への憧れと復興運動を特徴とするルネッサンスの思想的潮流が宮廷や大学において着目され、理想のジェントルマンになるためには、古典学問と異国文化の習得が必要不可欠であると宮廷社会で認識されたのです。
フランシス・ベーコン(1561-1626年)の著作『随筆集』(1625年)の章「旅行に関して」では、「旅行は若い人には教育の一部となり、年配には経験の一部となる」と指摘されています。旅先で見学し、観察すべきものとして、君主の宮廷、都市や町の城壁や要塞などに加えて、宝石や衣装の宝庫なども挙げられているのです。
当時、大陸からの旅から得られる教育は、その後のキャリアと連結することが多かったことも指摘されています。
例えば、フィリップ・シドニー(1554-86年)は、オクスフォードのクライストチャーチで学び、エリザベス女王の宮廷で数か月過ごした後、1572年から3年間大陸旅行に出かけ、外国語や外国の宮廷の流儀について学んで帰国した後、神聖ローマ皇帝兼ドイツ王ルドルフ2世(1552-1612年)治世下で、イングランド大使に任命されています。
その後1714年、ドイツから新しい王を迎えて始まったハノーヴァー朝(1714-1901年)のイギリスでは、プロテスタントが中心の国家であると同時に、立憲君主制を確立していきます。
加えて、植民地政策や農地解放の成功、そして産業革命などにより強い経済力を得て、他の国の追随を許さないほどの力を蓄え、ヨーロッパ屈指の強国に躍り出ます。イギリスにとって輝かしい時代である大英帝国としての歴史の始まりを迎えるのです。
その後18世紀のヨーロッパ大陸は幾度となく戦禍に見舞われましたが、同世紀に大陸旅行は全盛期を極め「グランドツアー」として貴族の子弟の間で定着したのです。
まずは、絵画について見てみましょう。
≪イタリアからのクロード・ロランの絵画≫
長らくイギリスはイタリアに比べて、文化的にたいへん遅れている片田舎の島国でした。
例えばルネサンス建築がイギリスにもたらされたのは、イタリアで発祥してから約200年、フランスに伝わってからでも約100年も後のことだったのです。
当時のイギリスでは画家という職業は低く見られて人気が無く自国の画家を輩出する下地が有りませんでした。
そんな事情から、美術品はヨーロッパ大陸から購入するものという考え方が続いていました。そのため、グランドツアーの帰りには、当時の強いポンドのおかげもあり、貴族の子弟によってこぞって大量の美術品が買い漁られ、母国にもたらされたのです。
貴族の子弟がグランドツアーを終えて母国に帰る時、好んでクロード・ロラン(1600-1682年)の絵画を持ち帰りました。
<Wikipedia:クロード・ロラン/『アポロとメルクリウスのいる風景』/1645年>
なぜなら、クロード・ロランの作品は、彼らにイタリアの風景を思いださせるからでした。遺跡が点在する牧歌的なイタリアの風景と黄金色の空。イギリス人にとって、ロランが描く黄金色の空ほど憧れるものはなかったからです。
また、プロテスタントのイギリス人は聖像崇拝に対しては抵抗感のある国でしたが、ロランの聖書を主題にした作品は受け入れやすかったという理由もありました。彼は「キリストの磔刑」といった具体的な受難の場面を描いたりしないからです。新約聖書が主題であっても、あくまで牧歌的で抒情的な、イタリアを思い出させる風景とともに描いたからです。
≪19世紀に活発化するヨーロッパ大陸への旅行≫
その後、1814年にナポレオンが敗北してブルボン朝が復活すると、イギリスからヨーロッパ大陸への旅行が再び可能となり、フランス、イタリア、スイスでは、また以前のように常に観光客を迎えるようになったのです。
<Wikipedia: ワーテルローの戦い>
それを後押しするように、イギリスでは、1807年にフルトンが汽船を作り、1814年にはスティブンスンが蒸気機関車を作り、1830年には、マンチェスターとリバプール間で、世界最初の鉄道が開通し、その後イギリス全土に網の目のように広がって行きます。
<Wikipedia: キリングワース炭鉱のためにスチーブンソンが作った蒸気機関車 (1816年)>
一方、新しく富裕になった人々は、自由になる金の使い道の一つとして旅行を選びました。こうした人々を対象とした旅行会社として、トーマス・クック社が1841年に創業し、団体旅行の取り扱いを始めたのです。
そのような状況の中で、とりわけ人気の高いヨーロッパ大陸での旅行先はイタリアでした。
みやげものにはよく知られた絵画と彫刻(名品の複製もよく見られた)が最も多かったのですが、たくさんの宝飾品も持ち帰られました。
それらの主だったものを見てみましょう。
≪イタリアからのジュエリー≫
○カメオ彫刻(ローマ)
ハードストーンやシェルを素材としたカメオ彫刻は、誰もが知るローマの特産品でした。
それまでカメオは男性が権力の象徴として身に着けていたため、モチーフには神話や古代の英雄が描かれていましたが、ヴィクトリアン時代には、多くの人々の手に渡り、しだいに女性の装身具へと変化していきます。モチーフも貴婦人の肖像や、優雅な女神が主流になり、古典的なテーマも叙情的な表現に変わっていきました。
<Wikipedia:ストーンカメオ>
○ローマン・モザイク(ローマ)
これらは、もともとヴァチカンの工房でのみ作られていました。この工房の目的は、本来、サン・ピエトロ寺院のインテリア装飾だったのです。色ガラス角片は絵画の模写の際に求められる繊細な陰影の表現を可能にしていたのです。
その作り方は、非常に細いガラス棒から切り出したテッセラ(角片)と呼ばれる色のついた小さな棒を、ガラス板に敷いた一種のしっくい、またはセメントの上に先の尖ったピンセットを用いて絵を描くように並べたのち、色のついた充填剤で隙間を埋め、表面を磨いて作られました。
花や鳥も人気でしたが、最もよく見られたモチーフは、ローマの遺跡や建築物でした。多くは板状のままで購入され、帰国してから宝飾品や入れものの蓋にはめこんだと言われています。
○フローレンスモザイク(フィレンツェ)
別名、ピエトラ・ドゥーラ(固い石)とも言われ、メディチ家の庇護のもとで発展したものです。アゲイト、カルセドニー、コーネリアン、ラピスラズリ、オニキス、マラカイト、マザーオブパールなどの半貴石や大理石などの微妙な色の濃淡を上手に使い、石自体の美しさを生かした装飾的作品です。花、葉などの植物、鳥、果実などをモチーフが好まれました。
○ラーヴァ(ナポリ)
ラーヴァ(溶岩)とは、テラコッタからオリーブグリーンまで様々なアースカラーの色をした石灰岩で、通常はカメオに彫刻されました。
○エナメル細工(スイス)
イタリアへの旅にはスイスを通ったこともあり、昔からエナメル画の技術に優れたスイスでは、旅行者がみやげものとして、絵画にように美しいスイスの田舎の風景と、スイス各地方の民族衣装をまとった女性を描いたエナメル細工を購入したのです。
≪19世紀のイギリスへの影響≫
1789年のフランス革命以降、宝飾文化の中心はフランスからイギリスへと移ります。ヴィクトリア時代には、女性自身を美しく見せる自己表現としての装身具に華が開きます。
<Wikipedia: 戴冠式の際のヴィクトリア女王を描いたジョージ・ハイターの肖像画>
それまでのイギリス文化は、貴族文化と言っても過言ではなく、18世紀までは宝飾品は、莫大な富を持った貴族が所有し楽しむものでしたが、19世紀に入って、産業革命により、台頭した資本家層もが所有し楽しむようになったのです。
そんな時代背景を受けて、グランドツアーと称した旅行により、イタリアを筆頭に、ヨーロッパ各地からもたらされた宝飾品は、金などの宝飾貴金属の発見、古代遺跡の発見によるデザインのインスピレーションなどとともにイギリスの装身具に多大な影響を与えたのです。
Ken
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