かのマルコ・ポーロの口述を書きまとめた『東方見聞録』の中には、日本に関する有名な『黄金の国・ジパング』に関する記述があります。
<Wikipedia;『東方見聞録』(『驚異の書』)(挿絵)フランス国立図書館所蔵>
この絵は、『東方見聞録』に描かれたフビライ・ハンです。
中央のフビライ・ハンに2人の王が日本の黄金の容器を献上しているところ、そして、フビライ・ハンの足元には「すこぶる美味」な日本の鶏が描かれています。『東方見聞録』のミニアチュール(挿絵)は写本が作成される過程で14世紀後半から15世紀初頭に描かれたものなのです。
<Wikipedia;フビライ・ハン>
では、東方見聞録に書かれたジパング(日本)に関する記述の一部抜粋をお読み下さい。
ジパングは東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では、金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。
この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根をふくように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計りきれないほどである。床も二ドワの厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。
『マルコ・ポーロ 東方見聞録』月村辰雄・久保田勝一訳 岩波書店より一部抜粋
今日は、この記述をもとに、「黄金の国・ジパング」について、謎を解き明かしていきたいと思います。
≪黄金の国・ジパングの謎を解く≫
(1)「ジパング」とは実際はどこだったのでしょう?
近年、この「ジパング」について、フィリピンやカンボジア・アンコールワットなどの説が取りざたされているようですが、「ジパング」はやはり日本と考えてよいでしょう。
その理由は、マルコ・ポーロが仕えた元王朝時代(1271-1368年)に起こった「元寇」について、「黄金の国・ジパング」の項に続いて『東方見聞録』に詳しく書かれていますが、その記述も、ほぼ正確に主要部分を伝えているからです。
「元寇」とは、マルコ・ポーロが元王朝に仕えていた時代(1271-1295年)に、当時の元王朝のフビライ・ハン(1215-1294年)が、日本の鎌倉時代(1192-1333年)中期に起こした二度にわたる侵攻を指します。
1度目は、1274 年の文永の役(ぶんえいのえき)、2度目が1281年の弘安の役(こうあんのえき)です。特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規の規模で、主に九州北部が戦場となったのでした。
<Wikipedia;1274 年 文永の役の鳥飼潟の戦い(『蒙古襲来絵詞』)>
(2)なぜ、元王朝フビライ・ハンは当時の日本が黄金の国だと知っていたのでしょうか?
それは、平安時代(794-1192 年)中期から鎌倉時代中期の10世紀から13世紀にかけて日本と中国の宋朝(960-1279 年)の間で行われた日宋貿易にその理由を垣間見ることが出来るでしょう。
まずは、中国の元の時代に編纂された正史(二十四史)の一つ『宋史・日本国伝』の中に書かれているのです。
そこには、「東の奥州に黄金を産し、西の別島(対馬)に白銀を出だし、以って貢賦と為す」との記述があり、当時の宋にとって、日本の奥州から黄金を産出するのだと考えられていたことが分かります。
当時、奥州とは藤原の平泉であり、宋とは密接な関係にあったのでした。その関係は、いうまでもなく奥州で産出された砂金によって築かれたといって良いでしょう。そしてそれを媒介したのが、日宋貿易の立役者であった平氏だったのです。
砂金とは、砂状に細粒化した自然金のことを指します。山腹に露出した金鉱脈が流水で洗われ下流の川岸の砂礫の間に沈殿します。大がかりな選鉱施設が不要で採取方法が簡単であることから、古くから個人単位での採取が行われてきたのです。
<Wikipedia;歴舟川の砂金>
日宋貿易で威力を発揮したのは、なんといってもみちのくの砂金でした。その金は、都の寺院・仏像の荘厳に大量に費やされたほかに、宋にも運ばれたのでした。
その証左として、『源平盛衰記』(巻第十一)に興味深い記述があります。
平清盛の嫡男で、奥州を知行していた平重盛のもとに、気仙郡から1300両の砂金が進呈されたのですが、重盛は、筑紫(福岡県)にいた妙典という名の唐人に、そのうちの100両の金を贈っていわく、「1200両の金を中国に持ち帰り、200両は阿育王山の僧侶に、1000両は、皇帝に献上して阿育王山に自分の菩提を弔う小堂の建立を願って欲しい」と依頼したのでした。
<Wikipedia;平重盛>
その旨を知った宋の皇帝は、重盛の深い志に感銘を受けて、御堂を建て、500町の供米田を寄進したと言われています。
つまり、宋時代には、既に当時の日本が、大量の金を産出する国であることが認識されていたのです。
(3)どこで、それほどの金を産出したのでしょうか?
砂金を産出する気仙郡とは、三陸海岸岩手県南部の旧気仙郡(大船渡市、陸前高田市、住田町)のほか、宮城県北部の旧本吉郡(気仙沼市、南三陸町)を含む、一大金山地帯のことです。
そこでは、現在も多くの砂金採取や坑道堀の跡が残っています。
(4)誰が、奥州で採れた砂金を京都まで運んだのでしょうか?
平安時代末期には、奥州で産出した金を京で商うことを生業とした商人がいたようです。『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに登場する伝説的人物で、その名も、金売吉次(かねうりきちじ)と呼ばれていました。
その起源を遡ると、奈良時代、仏教に帰依した聖武天皇が、災害や疫病の続く世をなんとか救いたいと願い、奈良に東大寺と大仏を建立したのでしたが、大仏の表面を覆う金が足りなかったため、全国に鉱物技師を派遣して探したところ、奥州で有力な金山が見つかったとの報せが入り、大喜びしたという話が伝わっているのです。
それが宮城県北部の涌谷(わくや)町近辺であり、周辺の北上山地やら、海側の三陸、気仙沼まで、金を続々と産出するようになったのです。
実際、この周辺地域には「金」がついた金山町、金成町、金崋山などの地名が多いのです。
金売吉次は、いつも袋に詰めた砂金を大量に持って京都に商売に向かったといいます。
(5)東方見聞録に書かれていた「黄金の宮殿」とはどこを指したのでしょう?
これにあたる建造物は、平泉の「金色堂」と言って間違いないでしょう。今までの時代背景からしても明白でしょう。
<Wikipedia;平泉金色堂 覆堂>
<平泉金色堂 内陣>
京都の金閣寺のことでは?と考える人もいるかもしれませんが、マルコ・ポーロの時代からさらに100年も後のこと(1398年建立)で、時代が全く合わないのです。
≪黄金の国・ジパング伝説が世界に与えた影響≫
この奥州・平泉に起因する「黄金の国・ジパング」伝説は、陸のシルクロード、そして海のシルクロードを通じて、イタリアに伝わっていきました。
そして、その後のヨーロッパにおいて、マルコ・ポーロの「東方見聞録」は意外な影響を与えたのです。
<Wikipedia;コロンブスの手書きのメモが書かれた東方見聞録>
この「黄金の国・ジパング」伝説は、ヨーロッパの冒険家の本能をくすぐり、ジパング到達の夢を膨らませたのです。
マルコ・ポーロの時代から約200年後の1492年に、ジェノヴァ生まれのコロンブスは、スペインのバロス港から西廻りにインディオスを目指して、大西洋へ向かったのです。
<Wikipedia;コロンブス>
その目的は、とりもなおさず、インディオス=アジアであると信じて、豊かな金と香辛料を求めるための航海だったのであり、その裏付けとなり、コロンブスを荒波に船出させたのは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」だったのです。
その第一回の航海の日誌には、黄金の記述が多数あり、実に8回も「ジパング」について言及されているのです。
コロンブスがアメリカ大陸を発見し、大航海時代の幕開けとなったことは、世界史の観点からも大きな出来事だと言えるでしょう。
Ken
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