宝石は、いつ頃からヨーロッパに運ばれてきたのでしょうね?
実は、かなり古い時代には既に、アジアからヨーロッパへ運ばれていたのです。
しかし、ダイヤモンドやルビー、それ以外の宝石が採掘された場所などの情報が、ヨーロッパにおいて得られるようになったのは、実は13世紀のマルコ・ポーロ(1254-1324年)による報告が初めてだったのです。
今回は、マルコ・ポーロを取り上げます。
彼は、生まれ故郷であるヴェネツィアを24年間もの間離れ、そのうち17年もの間、中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝・元(1271‐1368年)の第5代皇帝フビライ・ハン(1215-1294年)に仕え、アジアとヨーロッパを結んだ一人の商人です。
彼が、ジュエリーの世界に与えた影響について書いていきたいと思います。
≪マルコ・ポーロの幼少期≫
マルコ・ポーロ(1254-1324年)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや当時の中国を紹介した『東方見聞録』を口述した冒険家です。
<マルコ・ポーロの肖像/Wikipedia>
マルコ・ポーロの生家は代々続く商家で、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつありました。
父ニコーロと叔父マフェオの兄弟は、マルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着きましたが、政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かいました。
その間、マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わりました。
≪ヴェネツィア≫
さて、マルコ・ポーロが生まれ育ったヴェネツィアはどのようなところだったのでしょう?
彼は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした、歴史上最も長く続いたヴェネツィア共和国(697-1797年)に生まれました。
<ヴェネツィア共和国の国旗/Wikipedia>
ヴェネツィアの町は、かつて巨大な首都でした。長年、経済、軍事的に大変広範な影響力を行使し、外交上極めて重要な役割を果たしてきました。とりわけ地中海航路や、オリエント世界と西洋を結び付ける交易路の多くを支配してきたのです。
ヴェネツィアが、長きにわたって外的な攻撃や包囲、征服や侵入の試みに対して自国を守り続けることができたのは、「ラグーナ(潟)」という地形的な特徴があったことと深く関係があるのです。
それ自体が、最良の防御設備であり、ヴェネツィア人は、ラグーナを最良の状態で保全するため、巨額の資金と莫大な労働力を費やしたのです。
7-8世紀には既に、ヴェネツィアは、ビザンチン帝国(395-1453年)の一部をなしており、新たな勢力、例えば、シャルルマーニュ帝率いるフランク族といった、文明化・キリスト教化された勢力の拡張政策に対抗するため、戦略上重要な地域となっていました。
また、ヴェネツィアは、ビザンチン帝国が任命する軍事行政官によって支配されるという選択をする見返りに、ビザンチン帝国から政治・行政上自立を確保することができたのです。
そして、ビザンチン帝国とキリスト教新勢力との対立をうまく利用し、またその地理上の位置を活用しながら、常に独立状態を保ち続けたのです。
<アルセナーレ>
12世紀以降、町の東端に広大な産業用地区が造成されました。それは「アルセナーレ」という、国家の造船所でした。アルセナーレは様々な種類の船を建造し、その種類は戦争や商業船隊の護衛、アドリア海巡視のための武装ガレー船から、大型ガレー船、大型帆船、丸型船といった大きな輸送船にまで及んだのです。
輸送船は、船隊を組んで護衛船を従え、ヴェネツィア産の商品やヨーロッパ中からヴェネツィアに集まられた商品を積んで、地中海向けあるいはオリエント世界向けに仕分けされていましたが、定期的に、リドの港を出港したのです。
そしてヴェネツィアで販売するための、あるいはヨーロッパ中の市場に供給するための商品を満載して、またヴェネツィアに戻ってきたのです。
ヴェネツィアにおける中世は、政治的拡張以上に、経済的な拡張の時代だったと言えるでしょう。
ヴェネツィアは貿易、海軍の組み合わせで中世に大きな発展をし、最盛期にはビザンチン帝国の弱体化に漬け込み、十字軍の暴走の象徴として悪名名高い第4回十字軍(1204年)は、難攻不落のコンスタンティノープルを陥落しました。
これはフランスの十字軍騎士達の活躍によるものではなく、当時世界最強のヴェネツィア海軍の錬度によるものだったと言われています。
また、中世の西欧の都市の人口は数千人単位であった中で、ヴェネツィアの人口は数万人にまで達していましたが、西欧が没落していた中でも繁栄をしていたビザンチン帝国や、イスラム圏との貿易で経済的に豊かだったためだと言われています。
商業的な活力、経済成長の必要といったものによって、ヴェネツィアは、世界的なパノラマの中に存在していたとも言えるでしょう。
マルコ・ポーロはそのようなヴェネツィアの、おそらく、もっとも象徴的な人物と言えるでしょう。彼は、はるかオリエントの地におけるヴェネツィア文化の一種の証人であり、使者だったのです。
≪東方への旅≫
1271年、17歳の青年マルコ・ポーロは、父ニケーロと叔父マフェオに伴われて東方に旅立ちました。
ヴェネツィアの商人であるニケーロとマフェオの兄弟は、すでに1260年代、商取引のために入り込んだ南ロシアの地から、偶然に導かれるままにフビライ・ハンの宮廷まで旅し、フビライ・ハンからローマ教皇への使者の役目を託されるほどの信頼を得たのでした。
ポーロ兄弟はその役目を果たし、カンバルク(北京)へと復命に戻る二度目の旅行にマルコは帯同したのです。
ただ、今度は、元というモンゴル帝国の交通網の便宜を期待したのでしょうか、最初に父と叔父のポーロ兄弟がたどった旅とは道筋が違ったのでした。
<マルコ・ポーロの航路/Wikipedia>
地中海の東のはずれ、トルコとシリアが接するあたりに、その頃アヤスという港町が栄えていました。そこから陸路を北上してカッパドキアを通り、次いで道を東北に転じてエルジンジャン、エルズルムと続く高原地帯の町を通り過ぎると、やがてアララト山を望みながらイル・ハン国の首都タブリーズに至ります。
ここから先は『東方見聞録』の記述の通り東南に転じ、ヤズド、ケルマンを経て大貿易港ホルムズに向かい、そこで便船を待とうとしたものの、何らかの事情で海路を断念、イラン高原の道に戻るという迂回を余儀なくされたのだと思われます。
<ヘラート アフガニスタン>
そこから先は山岳地帯であって、ヒンドゥークシ山脈の北側、アム川の源流地帯の険しい道をたどり、パミール高原を越えるとようやくカシュガルにたどり着くのですが、とは言ってもカタイ(中国北部)はまだまだ遠い距離にあります。
この道をたどることは、現代の私たちにとってでさえ、ほぼ不可能といえるほど困難な道のりと言えるでしょう。
山間の難路と砂漠の暑熱ばかりではなく、宗教的・政治的な対立のために国境がしばしば閉ざされるであったろうし、また内乱の混乱のためにいたるところで足止めをくらう可能性もあったでしょう。さらにはいつ何時、スパイの嫌疑を受けて官憲に拘束されるかもしれないリスクもあったのです。
おそらく13世紀後半には、旅はさらに理不尽な危険に付きまとわれていたに違いないのですが、それにもかかわらず、いまだ世界の形状さえ判然とは認識していなかったはずのマルコ・ポーロが、はるばるカンバルク(北京)までたどり着いたのは、当然ながらいくつかの条件が満たされたからだと言えるでしょう。
シルクロードの歴史の最大の変遷は、ルートそのものの拡張ではなく、13世紀におけるモンゴル帝国の興隆により、安全面が強化されたことだと言えるでしょう。「パクス・モンゴリカ」(モンゴルの支配による平和)は、ヨーロッパの辺境から中国にいたるアジア横断の大回廊を単一の支配の下に統一しました。モンゴル人自身はこれを「天空の統一が地上にもこだました」と表現しています。
では、『東方見聞録』の著述の中でもいくつかジュエリーにまつわる記述部分を取り上げていきたいと思います。
≪バラシアン地方について≫
バラシアン地方について
バラシアン[バダクシャン、フェイザーバードを中心とする地方]の住民は、…
王家の血筋は、アレクサンドロス大王とペルシア最大の王国の主であったダリウス王の娘との子孫である。…。
この国はバラス・ルビーを産する。きわめて美しい宝石で非常に価値がある。このルビーは山の岩の中から見つかるのだが、人々は地中を掘り、銀鉱を掘るのと同じような洞窟を…。ただ唯一、シギナンと呼ばれる山に限っての話である。王は自分のためだけにルビーを掘らせるのであり、死を賭すことになるので、ほかの人間はあえて誰もその山を掘りはしない。(中略)
ところで、この国には、世界で最も上質のラピス・ラズリが掘り出される山々もあり、銀の鉱脈と同じような鉱脈から見つけ出される。また、大量の銀の鉱脈を含んでいる山々もある。その結果、この国はたいへん裕福なのである。【マルコ・ポーロ 東方見聞録 月村辰雄・久保田勝一訳 (岩波書店)より抜粋】
ここで記載されている、バダフシャーン州について見てみましょう。
現在、バダフシャーン州は、アフガニスタン北東部の州となっています。ヒンドュークシュ山脈とアムダリア川に囲まれて、タジキスタン(ゴルノ・バダフシャン自治州)とアフガニスタンにまたがるバダフシャーン地域の一部を成しています。
<バダフシャーン州/Wikipedia>
バダフシャーン州は北側と東側でおもにタジキスタンと国境を接していて、パキスタン北部のチトラールの北に伸びるワハーン回廊は、パミール高原を東西に貫き、僅かながら中国と国境を接しています。面積は44,059km² (北海道の約60%)で、ほとんどの地域はヒンドゥークシュ山脈とパミール高原の山地となっています。
<ヒンドュークシュ山脈 パキスタン>
州都はコクチャ川沿いにあるファイザーバードで、人口は57,400人。ファイザーバードは北東アフガニスタンとパミール高原地帯の商業と行政の中心地で、稲作と製粉も行なわれています。
莫大な鉱物資源の埋蔵量を誇るにも関わらず、バダフシャーンは世界で最も開発の遅れた地域となっています。近年の鉱物開発のほとんどはラピス・ラズリで、ラピス・ラズリによる収益は北部同盟、またかつては反ソ連のムジャーヒディーンの資金源でした。
近年の地理学的調査によって、ルビーとエメラルドの鉱脈も発見されており、これら鉱物資源の開発は、アフガニスタンの将来の繁栄を左右するかもしれないとも言われています。
さて、『東方見聞録』に出てくる、バラス・ルビーとは、俗にBadakhshi Ruby、Al Balakshと呼ばれ、またあるいはバラス・ルビー(Balas Ruby)の名でも知られています。今日、バラス・ルビーというと、やや紫がかった赤いスピネルを指すことになっていますが、本来はアフガニスタン産のルビーだったのです。
<大理石中のルビー~アフガニスタン産>
東方見聞録の注解には、シギナン(Syghinan)山はアムダリヤ川上流のシグナン川流域の山地のことと書いてあります。
しかし、実際にバラス・ルビーとして流通していたのは、カブールの東方60キロほどにあるジェグダレク(Jegdalek)で採れたルビーだったと言われていて、ジェグダレクの鉱山は700年以上にわたって採掘されていたようです。
マルコ・ポーロの時代には、フビライ・カーンをはじめ各国の君主に、当地のバラス・ルビーを売り込む富裕なイスラム商人たちが活躍したようです。
続くPart2では、フビライ・ハンに仕え、派遣された地で、実際に見聞したジュエリーについて書いていきたいと思います。
Ken